全ての行為は許されている。

投稿者: Ιωνάς 投稿日:

基督者には禁忌事項がない

「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、わたしは何事にも支配されはしない。


コリントの信徒への手紙一 6:12 新共同訳

自分で禁止することはできない

基督も回復を与えた人に対して「もう罪を犯さないように。もっと悪くなるといけないから。」と言われた。

これは罪を犯すことを禁止するというよりも、むしろ本人の利益・快適・平穏を実現するためには、罪の支配から逃れた方が身のためであるという意図であると理解できる(律法主義の否定)。

基督者には「すべてのことが許されている」ということは、見落としがちな真理ではないだろうか。「斯々のことを行おう」あるいは「斯々という行いを断とう」と考える場合、それは禁止されているから、あるいは命じられているからその作為・不作為を実行するという訳でない。

むしろこれではパリサイ人や律法学者と同じになってしまう。基督は彼らを批判されたが、同じように、ご自身の命令が律法のように扱われることを望まれないのではないか。この点がパウロ書簡では、より明確に打ち出されている。

現代の心理学においても、ある行為を断ちたいと願う場合、それを自らに禁止してしまうと、却って余計に行いたくなることはもはや当然と見なされているのではないか。つまり、行為の作為・不作為も含む全てのものは、神から与えられるのである。

避けられるべき行為は何によって断つことができるか

ではなぜ基督者は基督の命令を守るのか。それは、禁止ではなく愛によってである。基督を受け入れた者は神の霊(聖霊)を受けたとしか考えられないような、人生観・道徳観・世界観の劇的な変化を体験する。

この新生体験を経て、人は自然に罪から徐々に離れていく。あるいは、自分の生活や考え方そのものが、いかに自己中心でその場凌ぎで矛盾しているものであるかが、少しずつ分かっていく。

そしてこのような聖化された生活は自らの禁欲への努力によって得られることはない(ルターが修道院を出たことにみられるように)。繰り返すが、神に願い、それが与えられなければ、清い生活は実現できない。

ただし、今回の箇所との関連で、人は罪を犯すことによって神から、あるいは教会から離れてしまいやすくなることには注意すべきである。神から離れることは明確に罪である。

旧約時代においても、律法主義の否定について、以下のようにソロモンが同様のことを述べている。これは現代においても間違った主張とはいえない。基督の啓示は単なる文化でも哲学でも宗教ビジネスでもないが、同様に単なる道徳でもないのである。

若者よ、お前の若さを喜ぶがよい。 青年時代を楽しく過ごせ。 心にかなう道を、目に映るところに従って行け。 知っておくがよい 神はそれらすべてについて お前を裁きの座に連れて行かれると。


コヘレトの言葉 11:9 新共同訳
http://bible.com/1819/ecc.11.9.新共同訳

結論

基督者には全てのことが許されている。このことは、行き詰まったときに思い起こすと良いであろう。

何かを行い、何かを断つことは義務ではない。完璧な生活を送ることはできない。自分の快・不快・後悔などを先回りで想像して、利己的に行動を調節することは人の設計上許されていると思う。

最後に

基督を受け入れ、生活を改めたい方は以下の祈りをしていただきたい。洗礼や教会への所属などの外面的な徴と、基督を受け入れることは関係がない。

イエス様、私はあなたを個人的に必要としています。私の罪のため、身代わりに死んでくださりありがとうございます。私は今、心の扉を開き、私の罪からの救い主、人生の導き手として、あなたをお迎えします。私のすべての罪を赦し、永遠の命を与えてくださりありがとうございます。私の心の中心で私を導き、あなたが望むような者に、私を変えてください。

上記の祈りは以下のサイトから引用させて頂いた。基督者の信じることが簡潔にまとまっているので、興味があったら読んでいただきたい。

四つの法則


カテゴリー: 倫理学実践神学

Ιωνάς

基督者

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