すべての神々は同じか?

投稿者: Ιωνάς 投稿日:

体より信心(神観)を鍛えよ

偉大な業績を成し遂げ、宗教家として歴史にその名を残すパウロは「体の鍛練も少しは有効であるが、信心はこの世と次の世で益となる」ことを語った。

この世にある筋トレやジョギングなどだけではなく、呼吸法や座禅などの瞑想、ヨガやピラティスなどの身体技法は、それ自体有用な面があることは、私も限られた経験を通して知っているつもりである。

ちなみに、このような身体技法が基督の信仰とも両立可能である可能性は、身体的な悩みをもつものにとっては、より顧みられる必要が、いずれはあると感じる。

信心とは?

それに対して、信心というのは信仰を持つ者にしか馴染みがない言葉であろうし、信仰者にも実体が分かりづらい、抽象的な言葉である。

この点について、基督の教えは、律法的な、つまり善行によって神に正しいと認めてもらうことができないことを主張している。これがユダヤ人の信仰と異なったため、十字架にもつながってくる。

そもそも、モーセの律法が神から与えられた背景には、「私たちはあまりに恐ろしく、神と直接相対したくない」と願ったイスラエルの民の自由意思による願いを神が聞き入れたという事情がある。

ここからも、律法が理想的な神の意志を人に教えるものであるとはいえず、むしろ対処的に与えられているに過ぎないことが分かる。

結局は、確かにニューエイジ的な自己啓発書や、引き寄せの法則などが主張するように、思考が現実化するということはありえる。ただ、無茶なポジティブ思考は短期間で破綻するということは注意すべきであるが。

つまり、ある人のもつ(すべての人が、無意識的にかもしれないが、親や教師や友人から植え付けられている)世界観ともいうべきものが、人間の生き方や考え方を無意識まで規定し、24時間の生活をコントロールする。

さらにこの世界観は生活習慣までをも創り出し、結果的に健康あるいは病気、平安あるいは依存の問題にまで、ほとんど人生全ての問題に決定的な影響を与えるのである。

パウロがいう信心には様々な意味があるが、その重要な点として、今回は「神をどのようなものと思い描くか」(神論)という問題に注目したい。

信心と神論

信心と神論とは関係がある。何か信仰深い人生を目指したいとしても、何を信じているかという点は、結局のところ、神がどういう方であるのか、また何を私が行い、思考し、さらに人とどう関係していくことを望んでいるのかなどについて知らなければならない。

とにかく苦しい思いをすることが正しいのだ、などと思っているのではない限り、このように主知主義的に考えていく姿勢は、理性を与えられた人間の当然の神への応答であろう。

特にアブラハムの宗教には経典があり、ユダヤよりイスラムより、基督教はこの認識が弱くあってはならない。それは、自らの経典を軽んじていることである。

ちなみに、聖書は一言一句正しいのだ、などと福音派・聖霊派の連中は考えているからこそ、頭のなかがごちゃごちゃするのであろう。

明らかに誤りを含むことを認められない信仰の弱さを一刻も早く抜け出てほしい。私たちは紙の教皇に服しているわけではない。歴史は、またその記録は、神が介入しながらも、罪もあり知性の限界もある人間の歩みなのである。

様々な神々

様々な神々が考えられている。ギリシャ神話の奔放な神々。近代の機械論的で静的な神。スピノザなどの汎神論や理神論。ニューエイジ的な波動や量子力学を取り入れた物理現象的な神。仏教の輪廻天性の自然論。

そのなかで、私の神は自分の子を犠牲にしてでも、人に正しく生きてほしいというような、犠牲的な愛を持つ神である。

古くは創世記のアアブラハムやロトの物語にも、このような姿が暗示されている。アブラハムは大事な一人息子であるイサクを神に捧げる覚悟までする。またロトは暴漢に自らの処女である娘二人を渡してでも、客人を守るという正義を貫こうとした。

もちろん、明白に描かれているのは福音書である。ただし、福音書が4つあるだけでも様々な神ができてしまう可能性がある。念のため、この4書はある程度の統一的な価値観に従って書かれていることは補足しておく。

人は愛するものに似ていく

しかし、これがニューエイジ的なものになれば、神の性格を、ほとんど自分の好き勝手に描けるおそれがあり、それが支離滅裂で八方美人で多重人格的でないことを願う。そもそも聖典の範囲を決定しなければ、この点の議論も成立しないのである。

この意味で、聖書の聖典の範囲を決定したことは、それが完全なものなのかは分からないが、決定しないよりは明らかに良いということを感じざるを得ない。

このように、自分が敬愛する神はどのような性格なのかを認識すべきことは、重要である。なぜなら、人は、自分が愛するものに似てくるからである。飼い犬であろうが夫婦であろうが、愛というのは「似る」ことなのである。

この点に関連して、旧約聖書の時代から、真の創造者以外の性格をもつ神を信じること(偶像崇拝)は、アブラハムの宗教全般において、捨て去ることが勧められていることに注意を払うべきである。

基督者であろうが、他の神を信じる方であろうが、自らの神観の誤りが、今世と来世の運命を規定する可能性が十分に考えられる。

自分にとっての神の決定が現世利益的な選択になってしまうと、死んだ後に損をする可能性があるため、ここには慎重さが要求される。

神論の修正による、不必要な責任感からの解放の例

また、私の神は以下のように語る。つまり、人間より優れた存在である天使によってこの世に罪が入った。したがってある意味では、人が醜く自分勝手であるのは、ある意味では、人間の責任ではない。

ここで注意すべきは、この世の悲惨さと神の愛を混同してはならない点である。グノーシスのデミウルゴス(旧約時代の劣った神)という理解も成り立たないし、またこれは希望がない宇宙観でもある。

なぜ成り立たないかというと、このような悪なる意志が人を創ったという仮説では、人間にわずかながら残っている、善や優しさ、愛や良心などがどこから発生したか、説明がつかないのである。

ここで挙げた例のように、神観というものは、責任の境界線を定め、自分の責任範囲を決定することなどの、あらゆる価値観の土台となってしまうのである。

カテゴリー: 神学神論

Ιωνάς

基督者

0件のコメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください