良い人注意報

投稿者: Ιωνάς 投稿日:

そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。


マタイによる福音書 11:25 新共同訳
http://bible.com/1819/mat.11.25.新共同訳

あらすじ

「これらのこと」といわれる内容について、この箇所の直前には二点の宣教が記されており、「洗礼者ヨハネとイエス」と「悔い改めない町を叱る」と呼ばれる個所である。

簡単にまとめる。獄中のヨハネは「来るべき方」について疑いを抱き、基督のところに弟子を遣わし、誰を待つべきなのか質問させた。

しかし既にそこでは基督による大勢の人々への癒しが行われていた(どのような光景であったのであろうか)。基督は、このような神の愛の性質を目撃した人々は、これ以上基督に疑問を抱いたりしないことが幸せであると語る。

そして、このような良い知らせを聞いても、自分の生き方・神観を転換しなかった町々を、神の愛を知ろうとしないとして非難された。

啓示のパラダイム

新約聖書の全ての書物が書かれた時代において、ギリシャ・ローマの思想・哲学の影響を無視できない。特にヨハネの福音書はこの点が顕著であるが、ルカ、パウロなどはじめ、他の記者による書物にも同じことがいえる。

主知主義的なギリシャ哲学との関連で対立的に問題となるのは、イエスとパウロに共通して見られる、貧者・弱者・愚か者こそが神の救いの対象となるという思想である。

ここで見られる救済観は、ソロモンの箴言が書かれた時代からさらに時が経過し、人々の罪はさらに累積したと考えられ、もはや知恵によって義にいたることができなくなったことによるものであると説明できる。

このような救済論から、様々な疑問がわいてくる。つまり、この時代以降に主知主義的な取り組みを行うことは、神に喜ばれるのかどうか。むしろ、愚かで居続けることが神に喜ばれるのであろうか。純朴であり続けるためには、知性を排除する必要があるのか。

このような問いに全ての人は、無意識的にかもしれないが、必ず回答しており、それが各人の現実生活を形作っているのである。

罪→義認→聖化

救いの後に、全ての人が賜物を生かして神のために仕えるが、そのひとつに知性の賜物も挙げられる。ところが、救いに至るまでの時間という直線においては、知性は決定的ではないことは多くの人の救いの証言に共通している。

新生の経験を与えられた人は、一般に、知性によって、思索によって、アインシュタインのような思考実験によって、神の存在という可能性を発見するのではない。

罪・滅びの状態→救い(義認)→聖化の生活という三段階が神学的には、地上生活において想定されている。

しかし、救いに至るまで人の知性は曇っており、正常な判断ができないため、この段階では知性が決定的な役割を果たせない。知性に秀でていても、これが正しい道を見いだすことにはつながらないところに、原罪の悲惨さの一端がある。

むしろ、救いに至るのは、人々ができれば避けたいと思うような経験、つまり「現実との適応を失うこと」というネガティブな現実を経ることによってであり、これが神の設計であると考えられる。

そして、ここには「神と富とに仕えることはできない」という二元的な対立が隠れている。

つまり、嘘とごまかしを重ね、人の犠牲のうえに自分の平安を築くような、現実世界の勝利者には、もはや神が人にどのように生きてほしいと望んでいるのかを想像することさえできないため、彼らは永遠の滅びに至っても、神が間違っているなどと言い訳ができないかもしれない。

混同の危険

今回の個所を読む際に意識すべきは、救われたものは主知主義を否定すべきでないということである。

そもそも、全ての人および人の作り出す万物に、救われているか否かの区別が存在する可能性がある。

学問を例にすると、本来的に神学は救われている学問であるべきである。つまり、この学問によって人を堕落させたり金の亡者にしたりということは起こらないはずである。

また、人の救済段階においても、救われているか否かの区別が(神の目には)存在する。これらの、存在論的な救いと滅び、および時間論的な救いと滅びという事柄を混同すべきではない。

主張

今回の個所をまとめると、以下のようにいえる。

救われるのは現世利益だけを追求してそれに成功することがなかった「愚かな人」である。しかし、救われた後にはその人が知性の賜物を発揮する可能性もある。この段階においては、全ての人は愚かなままであってはいけない。方向転換できないことが滅びなのである。

知性がないことが「いい人」であることを意味するように考えてはならない。もしそのような人がいるならば、それは罪が赦されていないから、そのような状態に留まっているのかもしれない。

知性がないということは自己認識がより大きく誤っているということである。

しかも、そのことにも気づかず、いい人の気分で生きているため、周囲への害悪は大きい。本人はいい気持ちなのかもしれないが。

むしろ、繊細に罪を自覚できることこそが救いにつながるのである。この罪の自覚は、基督教の洗礼を受ける際の一度きりの問題であってはならない。

救われたことを自称する人は、全ての学問や人間の営みが神の許可の下に統治された状態で存在していることを認めるので、これらを避けずに、積極的に理解しようとする。

それらは現在の信仰の在り方に対する挑戦状・決闘の申し込みであり、面倒ではあるものの、これを避けて生活している人は、無意識に、基督の看板を汚すことになりかねない。


Ιωνάς

基督者

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