神が私にしたこと②

投稿者: Ιωνάς 投稿日:

記事のはじめに

今回は【神が私にしたこと①】の続きであるが、やや抽象的な記述も含む。具体的には、私の行動における誤りをもたらしてきた、人間観・宇宙観・世界観のようなものも書いた。認識が間違っていたら行動も的外れになる例として、反面教師にして頂きたい。

具体的な事実だけを書くことなく、やや観念的になってしまったことをご容赦いただきたい。

ロールモデルの不在

別記事の①にて述べたように悩む一方で、私は、タバコを止められず病死しようと、禁煙に成功して多少生き長らえようと、どちらでも良いとも思っていた。この気持ちは、自己卑下や自暴自棄だけによるものではない。

もし自分が、人々から憧れをもって見られるような、あるいは羨まれているような優秀な人間(芸術家とか学者とか経営者とか)であったとしても、その一人がどう死のうと(病死でも老衰でも)、そんなに大きなことではないと思っていた。

つまり、機械論的で無機質的でランダムな現代の宇宙観において、全ての人間は記号であり、取替可能な存在として扱われる。そこには、もし上手く行っても、歯車のひとつになれるという、ろくでもない希望しか存在しない。

当時は良く分かっていなかったが、今思い返すと、大概このような虚無感に支配されていたように思う。

人生とは、成功したとしても、以下に三つの例として(改めていう迄もないが)挙げるように、滑稽で盲目的で近視眼的な営みであるように思えたからだ。

  • 典型的な経営者あるいは多人数との性交渉(経験したことはないが、人間として理想的な在り方ではないことは、愚者でも容易に想像できる。人の上に自ら立ちたいという、あるいは欲望の満足を優先させるという動物的な在り方は猿とかゴリラを連想させ、好ましいものではない。)
  • ノーベル賞受賞者(思弁的な深まりや自然法則の部分的な解明、またそれによる科学技術などの、人々に賢いと賛美されるものが弊害なしに、恵みだけを人類に与えた例がひとつでもあるのだろうか。例えば、私は、もし車だけでも存在しなければ、より楽に呼吸できたであろうと毎日のように思う。)
  • 一部のアスリートや芸術家(自分の肉体・身体的特長・作品・技術にうっとりしているような自己崇拝者・自己陶酔者になりたくないと思っていた。※この点は個人的な美学の問題であり、好き嫌いが分かれるであろう。また、勿論、全てのアスリート・芸術家が自己崇拝者であるわけではない)

神に認められるためには、人の揚げ足をとっている暇はない

このように、心のなかで、全ての人類(成功者と落伍者と平穏な市民、あるいは同時代人と先人と最近の若者)を私は見下し、軽蔑していた。このようにして、自分のプライドを保っていたのかもしれないと考えると、流石に我ながらもの悲しさがある。

ただ、成功者のうちにもロールモデルを見い出せないのであれば、どこを目指して進むべきかも分からなかった。他人を非難する(裁く)私こそ、むしろ動物のように、ただ食べるだけのために生きていたことは、後にならないと認識できなかった。

ちなみに基督は処世術的な動機と、神に正しいとされる人間を目指すといういずれの動機においても、非基督者を非難することをやめるべきことを、彼のあとに続く者たちに要請する。

「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。 あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。 兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。 偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。

マタイによる福音書 7:1‭-‬5 新共同訳
http://bible.com/1819/mat.7.1-5.新共同訳

なんの変哲もない物語

ただ、私の中にあった憤りが、この頃になって明確化してきた。それは、「それでは、なんのために私は生まれたのか」という落伍者つまり社会と適応を失った者に特有の、お決まりのものである。

そんな気持ちが強くなってきたある日のことである。未だにはっきり覚えていることは、夜中に当てもなく鬱蒼とした木々のなかを歩いていたということである。

昔はよく発作的に、小石を本気で、できるだけ遠くまで蹴飛ばしながら(ぶつける場所もない怒りの発散)歩いたものだ。

誰に対してのものかが不明確である訴求

私は心のなかで叫んだ。

「幸せになりたいとも、健康になりたいとも、自制心がほしいとも思わない。とにかく、ただ、本当のことだけを教えてくれ。」

その訴えの相手は、仏壇の中の曼荼羅ではなかったと思うし、ニューエイジのいう波動やパワーや気のようなものでもなかったと思う。

当然のことではあるが、これら紙や物理現象は、所詮人間が分からない問いに答えることはできない。これらは何らかの自己催眠のような効果によって、自らの有効性を主張しているのかもしれない。

実のところ、自分より愚かで、知性のない存在にお願いをする合理的な理由は、存在しないのである。

そのような非力なものに、藁をもつかむ思いで「神頼み」するのではなく、私は当時学び始めていた「宇宙を無から創ろうとした意志」のような存在(あるいは存在を超越している存在)に訴えたかった。

ただし、曼荼羅などと違って目に見えない存在に祈るのは難しいことであると思った。どのようにそれが可能なのか、良く分からないままであった。

訴求の結果

話しはこれだけである。訴えたからといって、答えが聞こえるようなことも、勿論なかった。私の心の毎日の習慣となっていた、いつもの恨みつらみと何も変わらない訴えであるかにも思えた。

その日、どの道を通って家に帰ったかも特に覚えていない。ただ、闇のなかに生えていた、その木の情景ははっきり記憶している。

これは、詳しくは別記したいが、当時私が創世記に描かれている善悪の知識の実そのものと、原罪という概念について、取り憑かれたかのような勢いで調べていたことと関連しているかもしれない。

とにかくその日は、普通に帰って、普通に寝て、起きたのだろう。また、ほとんど給料をもらうためだけに行っていた仕事(ちゃんとしたサラリーマンではないが)も年度を跨いで、嫌々ながら、普段通り再開していた(確か週のうち三、四日くらい勤務していたであろうか)。

しかし、概ねその頃を境に、何がどうなったかよく分からないが、ひとつひとつの懸念事項の解消が始まった。

依存そのものの問題だけでなく、健康・平安・節制・落ち着き・より無駄遣いしなくなる・自傷行為しなくなるなどのことが、今に至るまで、徐々に現実化し続けているのである。

もちろん多少の浮き沈みはあるし、いまだに欠点も多く残っているが。

この変革は、タバコというしょうもない問題をきっかけにして、一人の人間の生き方自体やこの毎日の見え方などが変わるという経験であった。

さらに、これは本筋から外れるが、なぜか、あれだけひどかった喘息、アトピー、アレルギー性鼻炎、花粉症なども気にならなくなるくらいの劇的な改善を見せた。一体何が起きてしまっているのであろうか。そもそも私はこれらの身体的なハンデによって、自己実現を諦めていた面があるのに。

神学的には神による救いは一瞬で行われると考えられていることは、長期間の修行を必要とするような仏教などとの相違点といえるであろう。

なぜ回復の奇跡が起きるのか

心身にわたる革命が起こってしまった心理学的な理由は以下のようなものであろう。

つまり、あれだけ頑張って三年間禁煙した際には感じられなかった、ある種の時間的な不可逆性(もはや逆戻りすることのなさそうな、 – あの医者の云うところの – 霊的な成長)のようなものが、(人生で初めてかもしれないが)自分のうちに確固として、木の幹のように、どこかからか、太く生え出てきたような感覚があった(今もある)。

神がいるとしたら、そのプログラム言語は人間には読み取るどころか、用語の概念を理解することもできないであろうが、今述べた急激な内なる革命ということに関連して、福音書の以下の2ヶ所が思い出される。

そこで、イエスは言われた。「神の国は何に似ているか。何にたとえようか。 それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。」 また言われた。「神の国を何にたとえようか。 パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」


ルカによる福音書 13:18‭-‬21 新共同訳
http://bible.com/1819/luk.13.18-21.新共同訳

僕たちが、『御主人様、あの人は既に十ムナ持っています』と言うと、 主人は言った。『言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。


ルカによる福音書 19:25‭-‬26 新共同訳
http://bible.com/1819/luk.19.25-26.新共同訳

これらの言葉を、上述の文脈との関係において、以下のように理解することができるであろう。

神を100%信じることなど、科学的無神論の影響を受けた現代人には無理である。

しかし、100を持ち出すまでもなく、0と0.01の違いが決定的な差をもたらす。

すなわち、少しでも信じてみようと神の存在に賭けた場合(パスカルの賭けを参照)、

芥子の種が大木にまで育つような、

あるいはわずかのイースト菌がパン粉を何百倍にも膨らませて大きいパンができるようなことが起こる。

つまり、基督の教えによる悟りは想像以上のスピードで、

かつ逆戻りせず、

現実の生活の急激な変化として現れるのである。

(しばしば、この変化の速度に自分自身が付いていけなくなるのは新鮮で不思議な体験である。

※この聖書釈義についてはJMマリによる福音書の文芸批評学的な研究を参照)

加えて、一年以上、性的な罪を犯さないという仙人のような、充実した生活も味わうことができた。真の自由とは罪の奴隷にならないことをも含意しよう。尤も、結婚していればこんな禁欲生活を送らなくて済むのであるが。

秘密は存在できるか

自己分析など所詮究極的にはできないが、この変化は私の宇宙観の変化によるのかもしれないと感じている。

つまり、私はその頃から、何者かに、自分の全ての生活が記録されているかもしれない(それ以上に、行動の裏に隠れている動機も知られているかもしれない)という可能性を、絶望をもって認識しはじめた(ちなみに、自分が見られている感覚は統合失調症者と共通点があるといえるかもしれない)。

罪の文化と恥の文化

この見出しの言葉に関連して、まさにそれまでの私は、他人に見えないところで行う非道徳的な行為に、罪悪感をほとんど感じていなかった。私の辞書には恥という言葉しかなく、罪という言葉はなきに等しかった。

しかし、その行為が誰にも見つからない保証は(宇宙を創った知性・意志が存在する可能性を意識すれば)どこにもないと思いはじめた。

このような気づきは絶望(今までどんなことをやらかしてしまったのかが、消えない過去として改めて思い起こされる)をもたらすものであり、また、一方で、今までの生き方にはもはや戻れないような予感(上述の「時間的な不可逆性」)を漂わせるものであった。

私は見つけたのか、見つけられたのか

すかわち一度この感覚・疑念・可能性が心に生まれてしまうと、それを消し去って罪にまみれた、自分を痛め付ける生活に戻ることは、仮に望んだとしても、もはや不可能であるように思える。

ここではあくまでも自力救済の原理的不可能性が意識され、(基督から1000年以上後に生まれた浄土真宗のような感じであろうか?)唯一絶対的な力をもつ存在から受ける憐れみによって、人は自傷行為から救いだされるのかもしれないと思わされた。

救いは取り消されうるか

もちろん、今でも、悪いと知りながら何かを行ってしまうということはなくならない。しかし、あの(戻れないであろう成長の)予感は不思議なことに、生活全体の大きな流れとしては、今のところ、的中している。

この短い期間に起きた事実を、私の神に感謝申し上げ、本記事は擱筆としたい。

※最後に、上記の時間的な不可逆性はカルヴァンの神学において、不可抵抗的恩恵(Irresistible grace) – 予定された人間は、神の恵みを拒否することができない – と説明されていることを追記しておく。


あとがきと今後の記事

今回は全ての存在を創造した意志について注目したが、かなり簡潔にまとめてしまった。

この意志は、乱数を生成するような、無人の工場でロボットが自動的に画一的なコップを次々に創造するようなものではない。

むしろ人格のようなものをもち、私たち一人一人を一点モノとして扱ってくださる、とてつもない情報処理を行うことができるような存在と考えられている。

スーパーコンピュータで円周率を計算し続けるような現代においても、このような設計者であり、かつ今も生き続ける統治者であるような存在を思い浮かべることは、人間の能力を越えてしまっていることは自明であろう。

設計者は、映画マトリックスで描かれているような、システム全体を設計するに留まり、個別の存在に注意を払えない程度の処理速度しか持たない存在ではなさそうである。

基督者は神をこのように頭が悪い存在であると、人間の能力の限界からくる常識から考えてしまうことは勿論できないのである。

尤も、少しでも考えてみれば、設計者が人間より高度で複雑な性格をもつことも、原理的に、いうまでもないことである。

また、設計者は同時に21世紀現在の統治者でもあられ、さらに、3つの側面から多角的に一人一人に関わり続けている存在であるとも考えられている。

今後、その第二位格である基督との出会いについてなど、また他にも(この世の虚偽に気づくことと解放との関係など)自分の体験をより細かく書いていきたい。

※記事のテーマに関するリクエストを頂けると助かります。



Ιωνάς

基督者

0件のコメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください