神が私にしたこと①

投稿者: Ιωνάς 投稿日:

本稿の目的

少しでもキリストに信頼することによって、私の人生の現実がどのように変わってきたかについて記したい。

神がなしてくださった(と自らが認識している)ことを人々に証言することは、神に感謝する者が行うべきことである。

コロナ禍の現代ということもあり、苦しみの解決や正しい生き方を探している方のヒント・助けにほんの少しでもなれば幸いである。

また、1つの記事では伝え尽くせなかったので、今後も記事を追加できればと思っている。

解決不可能な課題の一例

私は依存の問題で苦しんでいた。タバコ、酒、薬物、などである。

他にもゲーム、ポルノ、自慰行為、他者の承認など色々あるのだが、今はこれらについては書かない。

とにかく、心身の健康という点において、タバコと酒が大きな問題となっており、もはや社会生活が送れなくなりそうなところまで来ていることを感じていた。

ちなみに、警察の世話には今後なりたくないと思い、違法薬物とは縁を切った。法律とはありがたいものである。合法なものはコンビニでも広告でも、視界に入れないことができなく、断つのが難しい。

それでは、タバコと酒くらいで大げさではないかと思われたかもしれない。確かに、タバコと酒なんて死ぬまで続ける人はいくらでもいる。

私の場合は複数の基礎疾患を有している(いた)ことが、問題を大きくしていた。

私は20代の頃に、ある器官の年齢を90歳以上であると測定されたこともあり、人並み以上に体が弱く、欠陥だらけなのである。(障害者手帳を持っているという訳ではないが。)

幼稚園以来の知人によると、当時の私の印象は体が弱いことだったらしい。

これを聞かされたときには驚いた。なぜなら、私は幼稚園の友人の印象などほとんど記憶にないからだ。

唯一印象に残っているのは、自閉症のような子がいて、「変な子だな」と思ったくらいなのである。

自分が丈夫な方だとは思っていなかったが、そこまで悪い意味で目立っていたとは、聞かされるまで知らなかった。

話は私が30代前半の頃に戻る。学校も休み休み卒業し、フリーターとなっていた私であったが、悪い先輩からタバコと酒は一人前に教えてもらい、もはや気づいた頃にはやめられなくなっていた。

禁煙を決意するのだが、どうしてもタバコを吸いたくなり、500円弱を出費して、一本吸う。しかしすぐに咳が止まらなくなり、タバコを箱ごとゴミ箱に捨て、やっぱり止めようと決意する。こんなことを何回繰り返しただろうか。

とにかく呼吸がしんどいのである。息止めしながら生活するような感じであろうか。頭がまともに回転するはずもない。

また、咳が止まらないということは、ほとんどあらゆる仕事を行うことはできないということである。

あなたは職場で、今から発話するはずの人の咳が止まらなくなり、急に席をたち、どこかで水を飲んでようやく戻ってくるような場面を見たことがあるだろうか。そんなことばかり絶えずしている人に給料を払いたいだろうか。こんな状態では会話も仕事も成立しない。

また、電車の乗り換えでちょっと歩くだけで、冬でも汗だくになるのことも忘れられない記憶である。歩くだけで息が苦しい。全力疾走している訳でもないのに。しかしそれでも私の歩く早さは杖を持っているおじいさんより遅いのであった。

酒について、斯々についてなどと書き続けることはせず、今はタバコの例だけに留める。タバコだけでなく、依存は日常生活を蝕むのであり、当たり前のことに感謝することを強制的に学ばせるのである。

最もコストが高い学習方法は、自分の失敗から学ぶことであり、最も低コストで学べるのは、他人、特に先人の教えを本などから学ぶことであるという、どこかで聞いた名言を思い出す。

とにかく、禁煙に限らず、普通の人なら、状況に応じて行えるはずの最低限の自制が、もはや(昔からの傾向かもしれないが)私にはできなかった。

今考えると、無意識のうちに、自分を傷つけて早く死にたかったのだろう。尤も自殺したと他人に思われたくはないので、このような方法で自傷行為をしていたのかもしれない。

この自殺願望はより以前の黒歴史に端を発するものであり、順を追って書こうとするならば、もはやどこから話せば良いかすら分からない。また機会があれば書こうと思う。

光が見えるきっかけ

ある年の夏が終わったころ、体調不良のため(本当はその日は二日酔いと睡眠不足のためであったが)、当日の仕事をドタキャンし、そのまま年度末まで仕事を休んでしまった。

自分で試行錯誤することの限界を感じ、精神科に行ってみた。

先生は「依存の解決には霊的な成長が必要」と言った。後述するが、妙に記憶に残る言葉、医者らしくないと思わせる言葉であった。対処的ではない、根本的な解決への希望を感じたのかもしれない。

先生方のおかげもあって、そのときは禁煙・禁酒に同時に成功している。呼吸は比較的楽になってきた。ただし、以前も三年以上禁煙して、元に戻ってしまった経験があった。なにかを変えないと同じことが繰り返されることが予想され、危機感を抱いた。

ちょうどその頃、アメリカ由来のアルコールなどの依存症回復プログラムが有効であるとの本を読んだ。これは「12のステップ」などと呼ばれる。

そして、その最初のステップとしてまず必要とされることは、自分自身が無力であり、絶対的な存在に対してなんの力もないことを認めることなのであった。つまり、自力救済の否定である。

AAとして知られる自助団体が用いているこのプログラムは、キリスト教の世界観が実践的に様々な依存症からの回復に役立つために普及しているものであると聞いたので、私は一神教について興味をもつようになった。

家庭の事情もあり、日蓮系の新興宗教団体の自力救済・ヒューマニズム・人間の潜在力礼賛のようなニューエイジ・スピリチュアル系の思想が残っていた当時の私であったが、

創造神の定めた生き方に逆らう自由が人間にはなく、どんな強い人も神の前で無力であり、神に反抗することはこの世・あの世も含めると、決して見過ごされることはない、などといった観念が新鮮であった。

先程のあの医者の言葉も、この一神教への興味をより後押しした。

それまでの私は、宗教は弱い人が信じるものであると、心のどこかで思っていたからである。

しかし、そうではなく、宗教に関して認識が誤っているから人生が歪んでくるように思えてきた。正しい宗教は醜い生き方につながるはずがない。日蓮の教えで、自分はさらに破滅していっていないかと疑問がわいた。

ポジティブ思考の破滅的な誤謬

私は宗教団体の(人のためという名目の)活動をして自己満足していたが、果たしてその私の魂は成長しているのか、私の人間性は少しずつでも善くなっているのか、などと疑問が生じてきた。

自分が、他人の欠点を赦せるような優しい人間・他人の粗を探さないような人間・自分を憎まないような人間に変化しない限り、人間関係や仕事のストレスは減らず、また元の依存生活に戻るか、あるいは別のものに依存して、より生活が崩壊していくだろうという気がした。

結局は私の心は汚いままであったことが少しずつわかってきた。このような人間の醜さに目を向けることをニューエイジ思想は行わない。私は偽りの自信を保つために、様々なものを見て見ぬふりしていた。その無理をした、現実と解離した強がりも、依存症につながっていたのかもしれない。

私が行ってきた宗教の活動や祈りは見せかけにすぎなかった。私は浄化される過程のなかに存在できていなかった。むしろ逆である。だから私は汚れた習慣から離れられないのではないか。このような考えが浮かぶようになっていった。


今回はここまでにさせていただく。予想した以上に、書きたいことが多すぎた。またいずれ続きを書きたい。


Ιωνάς

基督者

1件のコメント

神が私にしたこと② – Japan Jesus Church of Virtualization 日本仮想化基督教会 · 2021年4月30日 12:58

[…] 今回は【神が私にしたこと①】の続きであるが、やや抽象的な記述も含む。具体的には、私の行動における誤りをもたらしてきた、人間観・宇宙観・世界観のようなものも書いた。認識が間違っていたら行動も的外れになる例として、反面教師にして頂きたい。 […]

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