文脈の神学

投稿者: Ιωνάς 投稿日:

西洋の文明・哲学を神は用いられたが、それら自体は神ではない。例えば、西方教会の初期に土着化の過程で入り込んできたミトラ教をはじめ、キリストと関係ないものが、日本にも入ってきている。

さらに、時代、地域の影響という点でいえば、聖書記者、特にギリシャ・ローマとの接点をもつルカやパウロなどにも既に見られるだろう。さらに、公同書簡の対象の多くがギリシャ・アジアの教会であったのであるから、そこで許可・容認されている事項は、聖書記者が積極的に推し進めているとは限らない(第一コリントにあるような、外国語でない異言など)。

また、福音に余分なものが付属されている可能性はギリシャ・西洋・アメリカなどだけに限られない。神はユダヤ人を聖別されたが、それは、ユダヤ教やヘブライズム全てを正とすべきということを意味しない。

神学の「ドイツ捕囚」という言葉があるそうだが、理屈っぽさそのものは善とは限らない。私の信仰が誤謬から守られるため、それを分析していくためには論理が必要であろうが、論理は目的ではなく道具にすぎない。解放の神学などの現代神学が論理だけではなく神のみ思いを現実化するための行動と密接に関連していることに感動を覚える。

日本における聖餐は「パンとぶどう酒」ではなく「和菓子とお茶」であるとする論もあるらしい。どうすべきかは分からないが、確かにサクラメントを論じるに際しても形式主義は宜しくない。

私達は「紙の教皇」に服従しているのではない以上、「文言だけに縛られる」有り様から離れ、時代・土地に限られない普遍的な神のご性質を読み取り、具体的な生き方の規範としたい。

カテゴリー: 現代神学神学

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