過程の内部に存在する救い

投稿者: Ιωνάς 投稿日:

静的な在り方に救いはない

また、南風が吹いているのを見ると、『暑くなる』と言う。事実そうなる。 偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」


ルカによる福音書 12:55‭-‬56 新共同訳
http://bible.com/1819/luk.12.55-56.新共同訳

礼拝様式や教理について、神学的に正しいのか否かを論じることは、議論全体の一部にすぎない。この議論の背景にあって、忘れてはいけないことは、何かが固定化されること自体望ましくないという、つまり、変化・脱皮・止揚こそ真であるという、流動性に注目する視点である。

キリストの初臨の時代だけでなく、全時代に一貫して神は個人と組織の「脱皮」を常に望まれる。歴史が終わっていないということは、そこで全ての形あるものは時代の挑戦を受けて革新されるべきであるという、神の愛から発せられる意志を意味する。誰も「私は概ねこのままで良い」と言うことは死ぬまでできないことは、原罪と個人の全的堕落から帰結される。


積み上げたものを否定する勇気

神を理解するための諸概念も、時代の具体的な要請に応じた暫定的な回答として提供されるにすぎない。三位一体も信仰義認もこの例である可能性があり、これらはより精密化される対象・土台でありえるかさえも不確定である。中間時代に大量の資源を注入して口伝律法を精密化しようとする方向性自体がハマルティア(的外れ)であった。


流動性からみる滅びと救い

イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。


ルカによる福音書 13:2‭-‬3 新共同訳
http://bible.com/1819/luk.13.2-3.新共同訳

救いと滅びとは、各自の到達点そのものの高低によるのではない。これらを区別するのは傲慢即ち現状の肯定か、悔い改め即ち現状の絶えざる否定のどちらを選択するかである。つまり、現実の悲惨さから目を背けず、方向を変えていきたいと願うのか、それとも、個別の反省点だけに捕らわれ、在り方を変えたくないと願うのかの違いといえる。


悔い改めとは

現実的にみられる悔い改めは、「反省点の修正」と「方向そのものの根本的な転換」を両極とする連続的な線分のなかの、ある一点において行われる。

日々の祈りの中で我々は悔い改める。この行為は、具体的な悪行を反省するという表面的なものであるべきではなく、私が理想に向けて進んでいる、その歩みを逆走させるような、あるいは描いている理想像そのものを破壊・再構築するような、原理的に終わりのないプロセスを本質とすることに注意したい。


Ιωνάς

基督者

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