聖奠論と偶像崇拝

投稿者: Ιωνάς 投稿日:

カトリックの秘跡は7つであり、プロテスタントの聖礼典は2つである。そもそもサクラメントとは儀式という側面がないとはいえない。

この儀式が果たす現実的な機能として、存在を超越していため、見えるはずのない父なる神を目に見える形に矮小化して理解するということが挙げられる。神が「目で見える」存在であってほしいという無意識的な欲求については偶像破壊運動とも関連がある。

オンライン礼拝の様式(ここでは毎月のルーティーンのようなもの)を形成する必要は避けられない可能性が高い。そのとき、大きな問題となるのが聖餐式であろう。

現代において自由聖餐の立場をとる教会は少ない。通常の教会の立場は、「洗礼を受けて、教会籍を取得し、献金をしてくれる可能性が高い人でなければ聖餐にはあずかれない」という理解がなされる余地を残している。

しかし、聖餐にあずかりたいという気持ちを、組織の運営のために利用するような方法は、現代における「強いられた恵み」を与えられている事実によって、難しくなりつつある。

また、歴史的にも、このような正餐に関する解釈様式が宗教改革が起きたそもそもの原因の一つである。さらに、宗教改革者やその伝統に則る神学者達の間においても神学的な解釈の違いがいまだに消えない。

しかし、キリストの命令の本質は、定期的に、月一回これを行うことや、腹と喉を満たすことができない量のパンとぶどう液を儀式のように頂くことだったのであろうか。

キリストご自身が、例え律法のように以前神から与えられたものであっても、そのような「形あるもの」を神であるかのように硬直的に絶対化する姿勢を批判した。この「形あるもの」は歴史的に様々な形で見られた。例えば首位権を基にしたヒエラルキーによる正統性の主張、禁書・処刑にみられる教会の硬直性、宗教改革者が作った宗教の在り方、聖霊のバプテスマ・異言などである。

キリスト者は、目に見える徵や儀式によって、信仰が強められ、恵みを感じることを依存的に期待すべきではない。見ずして信じるものは幸いであるとキリストご自身が教えている。

本来キリストが言いたかったことは、貧しい人も金持ちも互いに持てるものを与え合いながら一緒に食事をするという「平和」という目に見えない「状態」を目指すべきことではなかったか。また、その日の糧が与えられたことに感謝し、キリストの裂かれた体、心と流された血を日々思い起こすべきであるという、やはり神の子としてふさわしい内面的なあり方についてではなかったか。

もし、互いに食事を一緒にするような関係性・状況ではないのであれば、あえて儀式として少量を頂くことは不変の定めなのだろうか。むしろ、そうではなく、これからのオンラインの交わりが主体となっていく社会においては、本当に理解しあえるような、神に対する価値観が多く一致するような兄弟姉妹どうしが、集まって食事をするような貴重な機会が与えられたことに感謝し、そのような形式に堕さないような状況で正餐に関するご命令に応答すべきではないか。

そもそも、キリスト者が愛餐会などで共に食事をしていても、(組織のことなどではなく)三一の神自体が話題にほとんど上らないのであれば、その集まりは何を目的としているのであろうか。

旧新約聖書の神が形式を喜ばれない方であることは時間的に一貫している。もちろん「形あるもの」に関するご命令はたくさんある。祭壇を築くこと、神殿を建てること、律法を常に心に刻むこと、聖書を読むことなどである。しかし、全ての「形あるもの」が「いずれ脱ぎ捨てられるべき子供服」のようなものである。つまり、これら「目に見えるもの」は神そのものではなく、各々の時代において、より神を知るために、対処的に与えられているにすぎない。

これは、各々の時代には神認識における固有の限界があることから発生する事態であるが、この限界は文明の発展などの時代の変化によって、一つずつ取り去られていく(啓示の漸進)。例えば、プログラミング言語がない時代に生まれた人は、現代人と比べて「ことばによる創造」について黙想することはより困難であろう。

旧新約聖書はアダムの堕罪から新天新地までの回復の物語であると読める。悲惨な現実に遭遇し続けることにより、私がもつ表面的かつ外形的な、あるいは超越的な本質への意志から常に離れようとする罪の性質(五感への依存)を、受動的かつ漸次的に「回復」できるという可能性は、毎日の家庭・職場・読書・祈り・ネットサーフィン・賛美・などにおける現実との関わりのなかに、無限に存在している。

この先ウイルスがもたらす新しい世界については予想できない。ほとんど元通りの世界になるかもしれない。少なくともいえることは、聖餐式はオンライン礼拝への移行を妨げる理由にならないということである。儀式が行われることや組織が経済的破綻から免れること、あるいは利害関係者が職を失わないことが暗黙のうちに優先されるべきではない。

むしろ、優先されるべきは、正しい心で神を礼拝するとはどのような様式の礼拝なのかという認識を、神が創造され続けているこの信仰へのchallengeが多様化を続ける現代において、日々私の到達点を基に、さらに更新していこうと努めることである。

ここにみられるような、個人・共同体が新しい時代からのchallengeを受けることで、それを弁証法的に乗り越え神学を更新するという過程は、終わりの日まで止むことがないであろう。ヨハネの黙示録は、この先どれほど神の存在がよりはっきりと啓示されても、それでも神に反対する人々が存在し続けると読むことができる。

そして、このような、時代特有の課題を神学へ吸収する過程についての達成度というべきものは、この世の思想・学問・社会の現状から目を背けるような盲目的な信仰を先ず否定し、理性による懐疑を罪とみなさず、むしろこれをある意味では許容するような、絶対的な存在への究極的な関心に捉えられたキリスト者各々の生活および資源の使い方のうえに現実の歴史として表れてくるのである。ここでいう「絶対的な存在への究極的な関心に捉えられた」在り方には、各人の「与えられた分」に応じて異なる。しかし、すべてのキリスト者が程度・種類の差はあるにせよ、このような「没頭」に招かれているのではないだろうか。

礼拝の様式全体を経済的な流れと捉えるときに、優先されるべきであるのは祭司階級の生活が守られることではなく、より弱い人々の生活が破綻から守られることであることはいうまでもない。

カテゴリー: 教会論組織神学

Ιωνάς

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