メディアの刷新による礼拝様式の変遷

投稿者: Ιωνάς 投稿日:


教会という建物で行われる、例の前奏・招詞から始まり、祝祷・後奏で終わる礼拝がキリスト以後の神を礼拝する普遍的なものであると考えてはならない。

むしろ、そこにある積もり積もった、神からのものではなく人による教えや、罪に気づくことが、悔い改めが言葉のうえだけの薄いものに留まっていることなど、神がもはや許容できないような存在様式に堕してしまっているような教会も、私の主観であるが、確かに存在する。

このような状況においては、「強いられた恵み」によって、神が一見不可解な、「神様、なぜこんなことを?」とある人が思うような強制的な介入を行うことは歴史上何度か起きている。

バビロン捕囚や神殿崩壊など、悲劇的に礼拝の様式が変更されることもあるが、そうでなくても礼拝の様式自体は多くの変遷を経ていることが聖書に書かれている。


神の御心を全て知ることはできない。しかし、礼拝の形式は本質ではないということは、これが歴史的に変遷している事実からも結論づけられるであろう。

この礼拝の様式の変遷は、建築・活版印刷・情報伝達・インターネットなどの文明の進歩ーー神が存在を許容したものーーによってある程度規定されている。

文明の発達とは、効率化を意味する。現代の私達は神以外の何かしらの趣味・娯楽・息抜きを楽しむのではなく、神だけに没頭できるような環境が、急激に整ってきている時代に生かされているのではないだろうか。

その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。 主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。

しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。

ルカによる福音書 12:48 新共同訳
http://bible.com/1819/luk.12.48.新共同訳

現代は情報を得るのが信じられないほど簡単であり、少なくともその意味において私は多くを与えられている。これだけキリストについての神学的な研究も多くなされ、また信仰の正しさを言語化して吟味するための哲学も進歩している。これらを利用してより良く神を理解できるようにすることが神への応答の一つの在り方であろう。

上記の意味で多くを与えられている者として、神を知るためにできることを、信仰の波を乗り越えながら、一歩ずつ行っていきたい。


カテゴリー: 教会論

Ιωνάς

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