特別啓示の時間的変遷

投稿者: Ιωνάς 投稿日:

民衆は皆ヨハネの教えを聞き、徴税人さえもその洗礼を受け、神の正しさを認めた。 しかし、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、彼から洗礼を受けないで、自分に対する神の御心を拒んだ。 ルカによる福音書 7:29‭-‬30 新共同訳 http://bible.com/1819/luk.7.29-30.新共同訳

凡そ信仰者は現代を信頼すべき

ファリサイ派や律法学者は神の不変性1について誤って認識し、またそれを疑うこともしなかったようだ。

神は特に救済・贖罪について、その時代を生きる私にとって最適なものを、その愛なるご性質ゆえにキリスト降誕から2000年後を生きるこの私に、提案してくださる。

留意すべき点は、その「信仰」のパラダイムは歴史を通して一様のあり方でなかったことは聖書の記述から明らかであることだ。つまり、三一の神は継続的に今もあらゆるもの・状況を創造し続けておられ、それは安易に「不変」と呼べるものではないであろう。

このような理解は福音派のディスペンセーション主義者とも一致する部分があるであろう。彼らは、その各時代において神が要請する信仰の在り方について、概ね七つ程度の時代の区分と各契約の対象者の変化とがあることを主張する。

厳密に区切ればキリストが公生涯を始めたその時代までは、ファリサイ派や律法学者は、ある意味では義であったともいえる。しかし、彼らは、来るべきメシアの存在を漠然と暗示するにすぎない預言書を信じていながら、未来に属する事柄についての神の御業の輪郭を悟っているかのように自己誤認していた可能性がある。その悟りと、キリストの在り方とが隔たっていると判断したのである。

その結果ヨハネの水による洗礼も、キリストの聖霊と火による洗礼も受けることはなかった。

律法の細分化こそが神に近づく道であり、神に喜ばれるような信仰の発展であると考えていたであろう彼らが、どのようなメシア像を描いていたのかは分からない。

しかし、彼らは自分たちが重要視していた律法は神そのものとは異なるという認識が徹底していなかった。また、彼らは、神からの啓司には、神の子の発達段階に応じて与えられる子供服のような、いずれ脱ぎ捨てられるべき存在もあるということが想像できなかった。つまり、所与のパラダイムが深化する以外の可能性があり得ることを認識できなかった。

ファリサイ派などキリストに反対する人々について、福音書は執拗に批判する。そのような聖書が私に与えられている理由は、その書物の読者であると想定されているこの私に大きな示唆を与える物語であるからであろう。

ここに描かれているのは、神が継続的に創造しているその時代(「今」)を信頼しないため、啓示が変化する可能性を考えることができず、結果的にその時代特有の新しい何ものかを目の当たりにしても、認識のパラダイムを変化させることをしない人間の実像である。

聖書は読者に、各人が生かされている「今」を肯定的に捉え、その時代から何かを学ばせようとする。昨日まで正しいとされていた(口伝律法のような)啓示に固執することは許されないのである。

ここに見られる誤謬は21世紀に生かされている私にとって示唆的である。

一般に、初代教会のあり方をある意味での理想として、現代の信仰者のあり方が否定的に評価されることがある。しかし、私は初代教会が想像もしていなかった類いの信仰に対するchallengeを現代の思想・科学・社会的な同調圧力などから受けており、またこれらchallengeのもつ影響の大きさ・範囲の広さを認識することさえ困難であるという、初代教会とは全く質的に異なる困難の中に置かれている。

どの時代においても、その時代ごとに特有の、信仰をなくそうとするchallengeが存在するのではないか。つまり、現代の日本とは、迫害を受けて殺されることもないような、信仰者にとって楽なものなどではないのではなかろうか。

私は以下に列記するような様々なものから目をそらすことなく、むしろ与えられた分に応じてこれらを理解するように努め、その過程において信仰・神・宇宙についての認識を毎日更新し続けなければならない。

  • 聖書自身の自己証言に反対する近代の聖書批評学・文献学・考古学・古文書学
  • 例えば、「神は死んだ」と宣言した近代思想やその系譜に属する現代の思想
  • その存在自体が聖書と矛盾すると考える人もいる、進化論仮説
  • 反証可能性がある科学的命題だけを考える価値がある対象であると理解するような、また、科学を神・真理と捉えるような科学の絶対化・科学的無神論

聖書が示すファリサイ派への非難をより一般化すると、彼らのように神の動的な側面を見落とした者こそが「盲人の手引きをする盲人」たり得るのではなかろうか。

今日も明日も、どれだけ聖化されることがあったとしても、私は「死ぬまで、このままの信仰でいられれば良い」と自己認識することはできない。日々、現状に批判を投げかける「何か」が起こるのであるから。

私は聖書を読むだけ(紙の教皇)でなく、私の現実の生活のうえに起こる、日々の不快な事象や、人々の思考様式に多大な影響を与え続けている、一見神を冒涜すると思えるような知的活動に対して、それらが神の許容を経て創造されていることを忘れないように、神の導きを求める。

Footnotes

  1. 組織神学的には神論・神観の範疇に属する事柄
カテゴリー: 神論組織神学

Ιωνάς

基督者

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